日々の記録

カナダの大学で人類学を中心に学んでいます

マスメディアから見えること

こんにちは。

夏のサマーコースも来週で終わりなのですが、本当にあっという間でした。まだ課題とテストがあるので気は抜けませんが今年のサマークラスはなぜかそんなに厳しくなく、課題以外の文献読みなどを楽しむ余裕まであります笑。インドアすぎて論文読みが趣味になってきました笑。ただ、いくつかの課題の期限が迫っているので今週はじっくりエッセイに向き合う予定です。

 

サマーコースでは社会学のイントロと Women in Pop Culture というクラスをとっているので、クラス内でマスメディアについて話すことが多いです。まず、マスメディアとはテクノロジーベースのコミュニケーション手段のことを指すのですが、大きく分かれて三つあります。インターネット、紙媒体 (Print Medium)、そして電波媒体 (Broadcast Medium)です。

 

クラスでは様々な広告を見て、それらの表現方法にどんな問題があるのかを話したりするのですが、一体どれくらいの人がクリティカルな思考を持って広告を見ているのかとても気になりました。大半の人はマスメディアや広告が私たちに与える影響力やイデオロジーについてあまり考えないのではないのかと思ってしまいます。また、それらの影響力を軽視している傾向があるような気がします。もしくは影響力についてあまり考えないのかもしれません。私も気がつかないうちにマスメディアに踊らされていると思いますし、現代には広告が溢れかえっており、一つ一つに意識を向けるのは大変だと感じます。

 

 

先日見かけたニュースで「月曜日のたわわ」という青年向け漫画が日経新聞の広告に載ったというのを知りました。性的に胸を強調した姿で描かれた女子高生が会社員の男性を”元気付ける”というテーマで描かれた漫画です。ネットでは表現の自由を支持する人と女性の性的消費に反対する人とで荒れていたようです。私も無料お試しぶんを試し読みしたのですが、内容はアウトだと思いました。少なくとも全年齢の人が見れるべきコンテンツではないと思います。

 

表現の自由を求める人たちのコメントの中に「漫画はフィクションなのに、現実との区別もできないのか。フィクションの中で楽しむ分にはいいじゃないか。」といった趣旨の意見をよく目にしました。私はこれに引っかかり、ずっと考えています。

確かに、漫画はフィクションです。現実世界のものではありません。ただ、私たちの現実世界がどれくらいフィクションという名の広告やイデオロジーに影響されているのか、というのを軽視しすぎではないかと思います。

 

こうなると日本の制服/未成年への性的嗜好や”女子高生ブランド”という言葉がどうして広まってしまったのかというのが気になってしまい、いくつかの論文を読みました。文献によると、女子高生の制服をブランドとしてみる傾向が始まったのはそんなに昔のことでもなく、1980年代からのようです。1985年に森信之さんが「東京女子校制服図鑑」を出版したのが一つのきっかけだと言われています。色々な女子高生の制服の写真とその高校の場所がマップに詳細に書かれているようです。どんな意図で出版されたのかわかりませんが、なんとなく気味が悪いなと思ってしまいました。その後テレビで女子高生がクローズアップされるようになり、街中で一般の女子高生のカバンの中身を紹介したり、制服を至近距離で撮影した動画をテレビで放送したりし、女子高生をコンテンツとして消費するようになったようです。ここでわかってもらえるかもしれませんが、女子高生制服ブームも一種のマスメディア(この場合紙媒体の本、そして電波媒体へと)から始まっています。私たちが何を良いと思って、何が欲しいと感じ、何をコンテンツとして消費するのかは気がつかないうちに、それでも確実に操作(影響)されています。

 

人類学のクラスでもよく話されるのですが、何を性的消費の対象にするかは人類一律ではなく社会的に、文化的に決定されています(もちろん文化の中に個人差はあります)。生物学ではないんですよね。ということで、日本特有の”女子高生を性的対象として消費する”のは”文化”です。文字にすると怖いですね。

 

この「月曜日のたわわ」という漫画では内容も問題ですが、女子高生を性的に消費し男性の日々の活力にする、というテーマの漫画が日経新聞という大きな媒体で広告として扱われたというのも問題だったのではないかと思います。何をプロモートするのかよく考えなくてはいけなかったと思います。また、このような漫画が”普通に”存在することが日本社会の女性の立場の低さをよく表しているなと思います。広告は一定の思想を植え付ける方法にもなり得ますが、どんなイデオロジーが社会に支持されているのか、マジョリティーの人間がどんな考えをよしとしているのか、というのをみる指標にもなり得ます。それくらい広告は人々の思想への影響力があるんですよね。

 

じゃあ、表現の自由はどうなるんだ、という人がたくさんいると思います。表現の自由についてはとても難しい問題です。ただ、表現の自由というの名の下になにが許されるのか、というのはその社会をよく反映していて面白いと思います。

 

下の広告は Love Cosmetics が1976年に出した広告です。

1976 Love Cosmetics ad in Seventeen magazine

Sutori

"innocence is sexier than you think"(純粋さ、無垢さはあなたが思っているよりもセクシーだ)という一文が載せられています。日本語でニュアンスが伝わるか難しいのですが、”純粋”な”少女”を”性”の対象として見ることが許される前提でこの広告は作られています。今、北米の化粧品会社がこの一文とともにテディベアを持った少女が性的に消費されることを促す広告を出したら完全に批判されると思います。ということは、マジョリティーの人が「この広告はモラルに反している、未成年の子を性的に消費することは間違っている」という考えを持っているということです。

 

広告自体は全く違いますが、「月曜日のたわわ」は胸を強調されるように描かれた未成年の女子高生が成人男性を元気づけるためにその人に胸を押し付けたりする描写がある漫画です。日本でどれくらいの人が「未成年の人を性的消費の対象にしてはならない」という考えを持った人がいるのか、そのような考えを受け入れる広告を認める人の多さから見えてくるのではないのでしょうか。人権問題について改善を求めるのなら、何が広告として許されるのかは取り締まられていくべきだと思います。また、表現の自由とそれを広告として扱い促進するのは別問題です。ただ、何が適切で何が不適切なのかは社会によるのできちんと考えていかなければならないと思います。

 

 

これは余談なのですが、この前カナダ人の友達と話しているときに私の出身の国の話になり、日本出身だよと伝えたら、日本に行ってみたいけど、日本の未成年に対するフェティシズム性的嗜好)ってやばいらしいじゃん…だから怖いんだよね…と言われ、図星すぎて何も言えませんでした。

もう一つ興味深かったのが違う友達が、20歳が未成年と仲良く遊ぶのは社会的にだめ思うけど、同じ歳の差でも20歳と24歳で精神年齢が合うなら年齢の壁は何も感じないしフラットな友達として接する、と言っていたことです。性的消費だけでなく、成人が未成年と遊ぶことに対しても日本より厳しい考えがあるように感じました。カナダが優れている、というのを言いたいわけではなく、ただ未成年に対しての保護、そして意識がしっかりしているなと感じました。

 

色々考えすぎると鬱になるのですが笑、社会学の教授が暗いニュースを見た後はポジティブなニュースをみるといいよと言っていたのでそうすることにします。ニュースから距離を置くことも大事ですが、目を背け続けるわけにはいかないので自分でコントロールできるように練習したいと思います。

 

 

今日はなんだか物議を醸しそうなトピックについて書いてしまいましたが、自分の意見を持つのは大事だと思うので投稿します!ではまた!

 

Works Cited,

Kinsella Sharon. 2015. "What's Behind the Fetishism of Japanese School Uniforms?" Fashion Theory: The Journal of Dress, Body and Culture, 6(2): 215-237.

 

Sutori. "Hypersexualization." 

https://www.sutori.com/en/story/hypersexualization--YcUbsUe25HwfQBZVtGH8q1Ch.